死と悲しみと安堵感
大切な人が亡くなった悲しみの中の安堵感
おばあちゃんがなくなった時、とても悲しかったけれど、その悲しみと同時に少しほっとしていた自分がいたことに気づきました。
私のおばあちゃんは、亡くなる数年前から少しの不運が重なってとても辛い思いをしていました。
足は、リウマチになり、雪で転んでこけて骨折をしてしまい、足にボルトを入れ、立つたびに苦痛に顔をゆがめ、足からは、「キリッ…、キリッ…。」と音がしていました。
その時のおばあちゃんの顔を見るだけで、私は何とも言えない気持ちになったのを今でも覚えています。
それからというもの、色々な不運が重なって最後は寝たきりになってしまい、いつも母に「おじいちゃんが早く迎えに来ないかな。」と言っていたそうです。
それを私たちに涙を堪えながら話す母は、とても悲しそうでした…。
「あの元気なおばあちゃんが…。なんで…。」
姉も私も、父も、母も、みんながそう思っていました。
その後、病院で肺炎に掛かりおばあちゃんはこの世を去りました。
あんなに散歩が好きだったおばあちゃん。
あんなに話すのが好きで、前向きで明るかったおばあちゃん。
最後は、意識もなく、点滴やらなにやら色々繋がれて、私たちの呼びかけにも応じませんでした。
そんな姿を見たからか、寝たきりになっているおばあちゃんを見たからか、亡くなった時、言葉にならないくらいに悲しかったけれど、少しほっとしたのを今でも覚えています。
「おばちゃん。楽になってよかったね。これからは痛みがない世界で、おじいちゃんと幸せになってね。」って。
そう心の中で思ったのを今でも覚えています。
私のお話が、どれほど他の方に当てはまるのかはわかりません。
ただ、大切な人を亡くした時、私たちは深い悲しみの中にも、安堵を感じることがあります。
それは、生前の痛みや願いを知っていたからであって、「ほっとした」からといって、あなたがおかしいわけでは当然ないということです。
そしてそれは、むしろ故人を愛おしく思い、大切に感じるからこその安堵感なのです。
「亡くなったのは、とても悲しいけれど、痛みや苦しみから解放されて良かった。」という、故人を思えばこその少しほっとする気持ちなのです。
きっと生前は、とても大変な思いをしたとあなたは知っていたのでしょう。
もしかしたら、一番身近で支えて来たのかもしれません。
だからこそ、その痛みを思えばこそ、安心するのかもしれません。
その安心する気持ちは、愛情だと私はそう感じるのです。
そのほっとする気持ちを感じても、故人は怒りませんから大丈夫です。
むしろ、
「そんなに思いを寄せてくれてありがとう。」
ってきっと天国からあなたに語り掛けてくれているはずです。